科学技術インタープリター養成プログラム

現代科学技術概論I

1月18日5限  担当:佐藤直樹(生命環境科学系)

                 naokisat@bio.c.u-tokyo.ac.jp   http://nsato4.sakura.ne.jp/

 

科学的言説の「わかりやすさ」と「真実」

--- 生命科学の構造と生命科学分野における諸言説のテキスト分析 ---

 

1.序論

 このプログラムは,自然科学や科学技術に関する知識を特に専門でない人々に説明する力を養成することを目的として,3年前から開設されたコースである。まず,科学と技術は何が異なるのか,という点を確認したい。科学scienceとは「知ること[scientia < scire (lat.)]であり,技術engineering, technologyとは「ものを作ること[ars (lat.)]」である。ラテン語のarsは英語で言えばart,つまり芸術も創造である。この教養学部の「教養」という言葉のもとになったのは自由7学科septem artes liberales (lat.) である。現代では科学知識に基づいた道具や薬品の創造が盛んであるので,科学技術といって,両者が同義語のように使われているが,本来は科学と技術は全く別のものである。大学に理学部と工学部が別個に存在するのがだんだん理解されなくなり,理学部の研究者も技術に奔っているあたり,日本には科学が存在するのだろうかと思ってしまう。もの造りはもの造りでおもしろいが,知識は知識である。だから,このインタープリターに要求されるのは,次の2点である。(1)自然科学の知識をわかりやすく伝えることと,(2)科学技術が成り立つしくみと問題点を解説することである。科学知識は説明すればよいが,前提となる知識に依存するので,説明に工夫が必要である。技術の解説になると,技術開発の目的に始まり,顧客ターゲットの範囲や技術の適用範囲の設定,もとになる科学的知識に加え,目的にあわせた技術開発の工夫,新技術の限界,など,単なる科学にとどまらない広汎な説明が要求される。

 このプログラムでは,Natureの文章を一般人にわかりやすい形でまとめるという演習なども行われている。それはそれで重要な演習であろう。しかし,それが科学的言説[discours scientifiques (f.)]のすべてではないことも理解しておいてもらいたい。Natureはいうまでもなく商業誌である。Natureには科学を作ってきたという長い伝統があることも否定できないが,まず,Natureはイギリスという国で作られた雑誌であること,そして商業誌は売れることを目的としていることなどを考える必要がある。人間の活動にはすべて,時と場所と場面,つまりTPOがあり,そうしたことを超えた一般的なものなどないはずである。「自然科学に国境はない」などといわれたこともあるが,このようなナイーブな考え方が価値観の錯綜する現代の複雑な世界に通用するとは思えない。文化活動である限り,科学も文化的・社会的制約のもとにある。そうなると,『自然科学に限っては(唯一の)「真実」が存在する』というのも,思いこみではないだろうか。「真実」が一つでなく,文化的・社会的背景のなかでしか定義できないとすると,商業誌のもつ「売れるための言説」の位置づけを考えなければならない。「真実」と「真実」を求める言説,「真実」を標榜する言説などの関係は,文化的・社会的現象として,(文系的に)解析する対象になるのではないだろうか。卑近なところでは,マスコミにおける報道と真実との関係など,いくらでも話題には事欠かない重要な検証すべき課題である。

 真実が存在するのかどうかは重要な哲学的課題である。しかし,何でも疑ってみることこそ,真理への入口であることには間違いがない。デカルト(R. Descartes)はすべてを疑うことから,自己の思考だけが唯一確実なものであり,自己の存在の原理と考えた(cogito ergo sum.)。これが現代にそのまま通用するものかどうか,最新の生命科学の成果をふまえて考え直す価値がありそうである。ここでは,もう少し現実的な議論にもどり,現代人に必要とされているのは,何か特定の主張を明解に伝える文章よりも,人々に疑うことを教える文章ではないだろうか,という指摘にとどめておきたい。何について疑うのか,どのように疑うのか,何のために疑うのか,現代人は意外と疑うことを知らない。インターネットをはじめとする高度な情報社会になって,何でもわかり,何でも情報発信できる。しかし,便利な社会そのものの中に落とし穴があるのではないだろうか。そしてそれが人類の危機なのではないだろうか。馬鹿になって疑ってみよう。本講義では,文章のわかりやすさの分析を通じて,疑うことの大切さ,真実を伝える大切さと難しさについて議論してみたい。

 

2.「わかりやすさ」と理解の容易さ

 この講義を準備するにあたって,すでにウェブ上に並べられているインタープリタープログラムで作られた解説文の習作を眺めてみた。すると,ある特色があることに気づいた。学生が自分の発想で書いた文章は,普通の文章であるが,一方で,「わかりやすさ」をことさらに強調した作文もある。その「わかりやすさ」には「構造 [structure (f. = e.)]」があるように思う。「構造」というのは,ここでは,タンパク質の結晶構造というような意味での言葉ではなく,「構造主義」[structuralisme (f.)]の名のもとにかつて言語学・文化人類学などで一世を風靡した概念である。ここでは,もはや古典的となったフランスの批評家ロラン・バルトRoland Barthesのテキスト分析の手法にならって,分析してみたい。

「わかりやすさ」は単純な概念ではない。ジャーナリズムにおける「わかりやすさ」は,読者に抵抗なく受け入れられることに近い。講義でも,「わかりやすい」講義は,学生に難しい理解を強要しない。しかし,講義にもさまざまな目的のものがある。まず,科学的言説のもつ多様性を考えてみる。科学的言説にはさまざまな目的を持ったものがある。ここで私が一貫して言説といっているものは,人が話したり書いたりした事柄を,真偽などの評価なしに,そのまままな板の上に置いたものを指す。フランスの批評家たちがdiscours (M. Foucault)とかécriture (R. Bartes)などといっていたものを思い起こしてもらえばよい。科学的言説には,科学論文や総説,解説,などがある。

 現在の科学論文は,きわめて狭い領域の特定の事柄について新規の知見を報告するものとなっている。これに対し,博士論文というのは,元来,当該研究分野の全体像を概括し,その中で,自分の研究の位置づけを述べるというようなスタイルであった。しかし,科学的知識が細分化される中で,一人一人の研究の領域がきわめて狭くなり,また,使う技術も多岐にわたるようになると,博士論文(thesis)も通常の科学論文にきわめて近いものになってきた。これには,出版される学術雑誌の数がとてつもなく増えていることも関係している。多くの場合,一人で把握できる事柄の範囲を越えてしまっているのである。総説(review)も元来は,当該分野の研究の全体を掴むためのものであって,関連する論文をすべて網羅して引用するという姿であった。ところが,昨今の総説にはさまざまなものがあり,分量もテーマの絞り方もまちまちである。Mini-reviewというのもよく見かける。即席のわかりやすさではなく,本質的な理解を促す科学的説明を考えたとき,その一つの類型は,昔の博士論文のようなものに代表される。問題の意味の解題から始まり,古今の研究者によるこれまでの研究でどこまでわかったのかをまとめ,その上で,著者が新たに導入する方法論を説明し,それによって得られた成果を報告する。その上で,これまでの研究に新たに加えられたものの評価を行い,最後に,まだ解決すべき問題を提示し,その解決に向けての可能性を議論する,というようなものである。

 これに対し,マスコミ的に「わかりやすい」文章というのは,「わかった気にする」文章である。そのためには,問題の全体像を明らかにしてはいけない。手っ取り早く問題点を限定し,新奇な概念や言葉を提示して,それが出てきた由来を説明する。その概念がわかったことで,問題が一気に解決したというようにまとめるのが,「わかりやすい」文章のステレオタイプである。 Natureなどの短い解説文は,話題の論文が当該分野での難問を如何に見事に解決したのか,そしてそれを掲載した Nature 誌は如何に優れているのか,を説明するという明瞭な目的をもって書かれている。その場合,問題の全体像を示すことは不必要なだけでなく,読者を混乱させ,文章の目的にそぐわない。科学的研究では一般にそうであるはずの,「今回達成された事柄が問題のごく一部の解決であり実際にはさまざまな留保がつく」ことも明示してはいけない。簡単に言えば,宣伝でありそれも commercial message  というよりも 政治的宣伝propagandaに近い。「わかりやすさ」にもいろいろあり,そのすべてが本質的な理解を促すものではないことを忘れないことである。

 日本の教育では,言説をぶつけ合って闘わすことが稀である。与えられる言説はすべて「真実」として受け取られている。それは教科書の記述でも,教師の発言でも同様である。アメリカの教育ではディベート(debate)が行われる。ヨーロッパでも人々は議論が好きだ。中国人や韓国人も結構激しく議論をやりあうが,日本では,他人と意見が違うことが罪悪のようなところがある。それでも,ディベートは日本でも大学や高校のESS(英語のサークル)では昔からよく行われていたし,このごろは普通の教育にも取り入れられてきている。Natureの宣伝は,言うなればディベートの一方だけの立場である。それに対峙するのは本来ならば読者である。しかるべき教養を身につけた読者は,自分で適切に批判的精神をもって読みこなすことが期待されているわけである。

 本来,どんな物事についても,さまざまな言説が存在していて,それらのあるものは互いに矛盾し合い,あるものは整合性がとれる,というような状況なのである。そのため,全体を統一して整合性のある理論ができるとは限らない。これがディベートなのであって,意見が違うから闘わせる必要があるのである。しかも闘わせたからといって統一見解がでるとは限らない。自然科学でも理論的に完全に統一できているわけではない。わからないことがあるから新しい発見があるのである。物理学の体系の美しさに魅了されたことのある人も多いかもしれないが,自然科学のどんな分野でも,統一的な体系ができるほどにすべてのことが整合性を持っているわけではない。 生命科学ではもともと生物種が異なれば話が違ってもよいという位で,そもそも全体を統一するという発想がない。それでもDNAで生命現象を説明しようとしてきた分子生物学は,生命の多様性をかなり統一できた点で大きな功績があった。

 上述の総説や昔の博士論文というのは,一つの論文の中で,多数の言説をぶつけ合い,その中で,新たな研究によって問題点を解決していこうとする試みである。そう考えれば,さまざまな言説の位置づけが見えてくる。「世の中にある諸言説の全体が形作る空間」を考えたとき,総説は比較的幅広く位置を占めているのに対し,個々の学術論文は比較的狭い場所を占める。さらに,Nature流の宣伝文にも相応の場所が与えられる。科学的諸言説の空間から,世の中の科学的言説を位置づけるという発想によって,科学の理解を図ることができるのではないだろうか。

 

3.「わかりやすい」解説のテキスト分析

 実際に,「わかりやすく」書かれた文章の一例を見てみよう(石浦先生のウェブサイトの「石浦博士のオドロキ生命科学」から拝借した)。ちなみに,これから書くのは,この文章を批判することではなく,その構造を調べることである。なお各文のはじめの括弧付きの番号は,筆者(佐藤)が便宜上つけたものである。


 

 

第9回 言語と自閉

(1A) 私たち人間が最もサルと違うところは、どこだろうか。生物の教科書には、二足歩行と書いてあるが、もちろんこれだけでなく、脳量の増大から始まって、知能、言語、などいっぱいある。しかし、遺伝子の考え方で言うと、どの遺伝子変異があってヒトに近づいたのか、という問いは、私たちを引きつけてやまないものがある。その中で、言語機能に関係する遺伝子がわかるかもしれないという話である。

(1B) ヒトゲノム計画が進んでおり、ゲノムの正確な枠組みが明らかになってきた。Science誌には、ヒトの第7染色体が読みとられた、という報告が載ったのだが、中に大変興味深い記事があった。

(2) 第7染色体には、以前から自閉症に関係する遺伝子があるのではないかと注目されていた。また最近、難読症家系の責任遺伝子として見つかったFOXP2も、第7染色体に遺伝子があったのである。このFOXP2には面白い話がある。何とサルやネズミにも同じ遺伝子があって、ヒトと2-4カ所しか塩基が違わないのである。FOXP2が発見されたときには、ヒトだけが持っている特殊な能力である言語機能はこの遺伝子によって制御されているのではないか、と騒がれたのだが、サルやネズミが同じ遺伝子を持っていたのでは話にならない。しかも、ヒトとサルとは2、3カ所、ネズミとは4カ所しか配列が違わないのだ。ちょっと熱が冷めたときに、この発表があったのである。

(3) 今回、染色体転座が見られる自閉症患者が3例見つかり、これらの患者での遺伝子の分断部位が明らかになったもので、その解析結果が発表された。転座というのは、染色体が切れて別の染色体と結合する現象で、そのために何か症状が出るなら、切れた個所にあった遺伝子が症状を引き起こす可能性が高い、と考えるのである。患者11550では、遺伝子の分断部位が別の言語障害の患者の部位に近い場所7q31.3にあり、ここには未知のRNA遺伝子があった。第二の患者18667の転座部位は、何とFOXP2の近くの7q31.2であった。この転座染色体を母親から受け継いだ自閉児は、確かに言語機能に障害を抱えていたという。すなわち、FOXP2は自閉に関係するかもしれないのだ。第三の患者16724の転座部位は7q22.1にあり、ここに一番近い遺伝子は、ペントラキシンというものであった。この遺伝子も自閉症の候補の1つに違いない。

(4A) 自閉症というのは遺伝子とは関係ないというのが今までの文化的(佐藤注:文科的の誤り?)な見方であった。しかし、ある特定の遺伝性疾患に自閉症状が伴う例も多数報告されており、遺伝子の機能と自閉傾向には確実に関連があるというのが科学界からのメッセージである。もし自閉で困っている人がいるのなら、真剣に科学の目から対策を講じる時期が来ている。

(4B) 一方、言語機能獲得の意味を考えている進化学者にとっても、この遺伝子研究は大変大切なものとなるだろう。FOXP2は、その発見以来、多くの認知科学研究者の研究対象になっていた。この遺伝子と自閉症がどこかで関連しているという仮説は大変魅力的なもので、私だったら今からでもこの研究をやりますが、そんな意欲的な人間が少ないところが日本の問題なのである。


 

いつも通りの名文なのであるが,これには顕著な構造が見られる。基本的には,古典的な3段構成で,導入・本題・論評,となっているように見える。では導入はどこまでかというと,一見したところ(1A) (1B)のようにも見える。但し(1B)は引用元の紹介だけである。引用した論文の中身が(2)(3)で,(2)は当該論文以前,(3)が論文の中身とわけられるように見えるが,そうでもない。(2)ではFOXP2という遺伝子が話題になっていて,論文の中身というよりも著者独自の導入部というべきである。となると,ここで,この文章の構造が見えてくる。この文章のテーマは何だろうか。タイトルは「言語と自閉」であるが,直接的に言語と自閉の関係を論じた部分はない。(3)にはどちらの言葉も出てくるが,いくら読んでも両者の関係は明確に説明されていない。そもそも自閉症という概念の説明がないのである。そこで他の言葉を探すと,(2)(3)で繰り返し出てくるFOXP2がテーマであるようにも思える。著者のいいたいのはFOX2が言語と関係していることがすでにわかっていて,その上でさらに自閉症との関連がわかったということだろうか。しかしよく読むと(3)の中の3つの例のうち,FOXP2が関連するのは第2の例だけである。第1と第3の例について書かれていることが,本当にこの話に関係あるのかどうかわからない。では,本当の主題は何だろうか。一番印象に残ることで,この文章の著者が主張したいと思われるのは,(4A)にある自閉症に関する旧来の心理学の立場への批判であろう。通常の解説文では,導入で提示されたテーマで締めくくるはずなのだが,(4B)は論旨がはっきりしない。ウェブサイトの解説文ということで,「落ち」が流れているという言い方もできるが,別の言い方をすれば,これが「落ち」と考えられる。というのも,構造主義的なテキスト分析の観点からは,この文章と落語の小咄は形式が似ているように思われるからである。

 落語では,講演会とは異なり,話されるテーマそのものに興味があって観客が集まるわけではない。出し物は予め決まっていることが多いからである。したがって話は唐突に始まる。なぜその場でその話題を話すことが必然なのかは明らかではない。そして,演者の提供する話題,しかも往々にしてきわめて特殊な話題に引き込まれていく。そして最後に落ちがあるのだが,多くの場合,落ちは主題とは関係ないことが多い。本当は本質的なことを落ちにできればよいのだろうが,枝葉末節的な言葉の遊びで終わることも多いような気がする。上の文章を「石浦寄席」と呼ばせてもらうと,そのしくみがわかってくる(石浦先生には失礼な言い方かもしれませんが,わかりやすいと思うのであえて使わせてもらいます)。実は3部構成ではなく,全体が一つの流れになっているのである。いいたいことはあるのだが,最初は人目を引くキーワードから入っていく。本題では,FOX2など誰も知らない専門用語が出てくるが,ともかくそれをめぐって何かわかったことになる。そしてまとめは,他の話題に転じた形で締めくくる。

 ここでFOXP2は実際には何でもよいことに注目すべきである。もちろん遺伝学の問題としては,これは正当な命名に基づく呼称であって,他の記号に置き換えることはできない。にもかかわらず,一般読者にとっては,これはスーパーマンや仮面ライダーと同様,ただ単にヒーロー(または悪役)を表す語句に過ぎない。単純化していえば,(2)ではこのヒーローは正体不明,正義の味方(または悪党)かどうか曖昧であったが,(3)では,どうやら正義の味方(または悪党の親玉)らしいということがわかってきたということである。Barthesに倣ってconnotation (f.)(言外の意味,含蓄と訳されるが,Barthesでは意味論世界の多重性の解釈において用いられる)という概念を使うと,今の場合,signiifiant (f.)(意味するもの)= FOXP2signifié (f.)(意味されるもの)= 言語障害(自閉症), connotation = ヒーロー(または悪役),ということになる。現実には,このヒーローは全然ヒーローではなくて,原因遺伝子つまりアンチヒーローであるのだが,読み手の気持ちとしては,犯人が主役になってしまう。(3)の後半にある「すなわち、FOXP2は自閉に関係するかもしれないのだ。」という言葉がこのことを端的に示している。Barthesle code des signes (f.)(意味のコード)の体系という概念を援用すると,石浦寄席に限らず,この種の話は皆この構造を持つことがわかる。つまり,「わかりやすい」というのは,誰が犯人かわかりやすいということなのである。水戸黄門というテレビ番組の構造については,昔から分析がなされているが,あんなチャンバラ劇を安心して家庭で見ていられるのは,誰が悪人であるのか,はじめから明らかだからである。最近のミステリー番組は,すじが複雑で犯人が読めず,ただ残虐なシーンが出てくるばかりで,家族向けではない。

 インタープリタープログラムでの過去の作文の例として挙げられているものの中にも,この構造をうまくまねて踏襲しているものが見られる。その気になってやればできるものだと思う。結論から言うと,この種の文章は決して「わかりやすい」ものではない。自閉症とはなにか,自閉症と言語の関係がどんなことなのか,さっぱりわからない。また,FOXP2というもっとも肝心なキーワードについては,これを読んでも理解が深まることはない。FOXP2については,ずいぶんとたくさんのことが書かれているのだが,これが何であるのか,なぜ人々が関心を寄せていたのか,など肝心な点はわからない。だからといって,これを読んだ読者は「わからない」という感想はもたない。「何かわかった。すごい。」というイメージが残る。その余韻の中で,著者が言いたかったことがさりげなくつづられて結ばれているのである。

 では,この手法は「よい」のか「悪い」のか。インタープリターとしてまねすべきものか否か。それは文章の目的によって異なる。読者にあらゆる情報を詳しく説明し本当に理解させようとするならば,このような文章では無理である。文章の長さが短いのでやむを得ないというのではなく,この手法では不適切だということである。しかし,読んだ人に興味を持たせ,これから勉強してみようという意欲を抱かせるのには役立つ。その意味では,上述のNatureの解説文と似ているし,そうした明瞭な目的を実現するのには最適な表現技法であろう。つまり,判断基準は文章の目的ということになる。繰り返しておくが,この分析の意図は,文章や文章に書かれた内容を批判することではなく,文章の構造を明らかにし,そこで用いられている手法の実効性を考察することであったので,今の結論が求めているものということになる。

 講義や講演会などでこのような話し方をすると,聞いている人はわかったという満足感があるだろう。かといって,ではなにがわかったのかと問いただすと,必ずしも話し手の意図したものではないかもしれない。それは上述の落語の問題と同じである。おもしろかったことや強調されていたことが,必ずしも結論したいこととは同じではないからであり,本当に理解してほしいことについては,理詰めの説明がないからである。これに対峙するものは,「疑うことを可能にする説明」である。疑うことを可能にする説明というのは,新奇概念や特定の語句を強調する(つまりヒーローや悪役を特定する)ことではなく,設定した問題を一つ一つ解題していき,問題点の広がりを確定し,その中で出てくる概念の関係をひとつひとつ解きほぐしていくことである。上の文章でいえば,まず,自閉症とは何か,言語障害との関係について,これまで何が言われてきたのか,その上で,自閉症の原因と見られる遺伝子がどのように調べられたのか,その結果として言語障害と自閉症の間の関係についての知識がどれだけ深まったのか,というようなことを順に述べていくことである。しかし,このような書き方をすると長くなるし,読み手にとってはおもしろくない。丁寧に説明すればするほど,難しいという印象を与えてしまうに違いない。

 

4.「造反有理」の温故知新

 ここでふと思い出すことがある。大学が紛争に明け暮れしていた時代のことである。当時,私は無期限ストの中,入学したのだが,4月も5月もクラス討論で終始した。考えてみればおもしろい時代であった。おかげで,ずいぶんと本を読むことができた。当時,そこらの壁には上の4文字が落書きされていた。毛沢東主義セクトの仕業である。毛沢東の偉いところは,共産主義を中国に持ち込むにあたり,どこの国の誰だかもわからない(中国の一般農民にとって)マルクスなどという名前や唯物論的弁証法を持ち出すよりも,自国民がわかる言葉を工夫したことであった。上の4文字もその一つである。どんな事柄についても反対のことをなすのは意味があるというような意味だと思う。従って,資本主義秩序に反抗して革命を起こすことは正しいという説明になった。また,文化大革命の際にも,思想的強化のスローガンとなった。当時もアメリカ帝国主義という言葉があって,それに反抗することは正義と見なされていたのだが,現在のイスラム社会がもつ反米主義とはかなり趣が異なっていたのではないか思う。ただし,その後4人組の追放を経て,現在のような改革・開放路線に転換したという点で,造反にさらに造反が重なったということになるのかもしれない。

 なぜ今更こんな昔話をするのかというと,どんなに正しそうに見える理屈にも落とし穴があり,どんなに悪く見える犯人にも何らかの理があるということを言いたいからである。物事はあらゆる面から検討しなければならない。先入観というのは恐ろしいもので,物事の判断を誤らせる。プラトンの「ソクラテスの弁明」「饗宴」などを読んだ人は多いと思うが,それらの中で,ソクラテスは対話(dialog)という手法を使っている。ソクラテスは先入観を排し,相手の言うことに逐一異議を唱え,そうではない可能性を考えさせる。これが弁証法(dialectics)の始まりである。弁証法は,近代哲学でHegelによって再び取り上げられ,These – Antithese – Synthese (d.)という弁証法的発展の概念が生まれた。マルクスもこれを再解釈したのである。だから,弁証法は共産主義とは別個に成立しているし,上述のディベートもやり方によっては,弁証法の実践となる。自然科学の発展も,大きくとらえると同じような対立と発展の繰り返しととらえられる。自然科学はかなり理論的であまりひどく間違ったことが起きないようにも見えるが,ついこの間まで正しかったことが否定されることは案外ある。専門的な例をあげると,近頃,哺乳類ミトコンドリアゲノムの複製機構について,どんでん返しが起きたことは記憶に新しい。また,架空のものと冷たい目で見られていた花成ホルモン(フロリゲン)の実体が,FTというタンパク質であることがわかったことなども最近の話題である。近頃はやりの万能細胞も,少し前までは,分化した哺乳類細胞が脱分化するなど考えられなかったという点で,どんでん返しの例である。もっとも,植物や下等動物の細胞なら,簡単に脱分化して,そこから個体の再生が可能なことは50年も前からわかっていたのだが。

 こうした科学知識のレベルでの反転は,純粋に学術的な問題であるが,技術が絡んだ話になると政治的な要因が大きくなってきて,複雑化する。昨今の話題でも,薬害エイズ,薬害肝炎,未だに残る水俣病問題,都市の大気汚染問題など環境問題,食品の安全管理,組み換え食品の可否,バイオエタノールへの転換,など食品をめぐる問題,温暖化・二酸化炭素・省エネルギーなどの問題,等々いくらでもある。これらの問題は,政府側の意見表明が紋切り型であって,それに対するマスコミ報道が極めて一方的であることが多い。民意がどこにあるのかというと,多くの場合,マスコミの洗脳に載せられてしまうことが多い。疑い深い私は,どちらの側の意見に対しても疑いの目を向けたくなってしまう。体制に対する造反という昔の図式ではなく,体制側,反体制側の双方に対して,不信を抱かずにはいられない。だから新たな造反有理である。そもそも物事は単純ではない。悪役が誰なのか,簡単に決めることは難しい。善悪の問題決着だけでなく,実際に困っている被害者がいる以上,何らかの救済をしなくてはならない薬害問題などは,複数の判断基準を混在させて政治的に判断せざるを得ないので,とても難しい。科学技術が絡んだ政治問題は,問題点をすべて明確に示すというだけでも大変なことである。立場によって,認められる事実と認められない事実があり,問題点を列挙するだけでもコンセンサスは得られない。

 

5.報道と「真実」への疑い地球温暖化をめぐって

 これまで私自身の専門のことについては触れてこなかったので,すこし関連した話題を議論したい。私の専門は光合成生物の機能ゲノム学・比較ゲノム学なのであるが,少し広く光合成としてみよう。地球温暖化という言葉が連日テレビや新聞を賑わしている。同時に二酸化炭素排出削減がほとんど同義語のように使われている。省エネルギーも然り。さて,これら3つの概念の関連について,どのように考えればよいのだろうか。この問題提起の仕方は,石浦寄席に似ているといわれそうだが,それならば,「皆さんは,地球温暖化ということを知っているだろうか」としてみよう。バイオエタノール,排出量取引等々,言語道断だと思うのだが,世の中は実に奇妙な方向に暴走しているように思えてならない。

 この文章の中で,私は一貫して「真実」を括弧書きにしている。というのは,無条件な真実など存在しないと信ずるからである。自然科学の「真実」は,「前提Aが成り立てば,帰結Bが成立する」というものが多い。これを「タイプ1の真実」としよう。数学的な推論に近いものである。この場合,前提Aが成り立つのかどうかの判断が必要となることに注意すべきである。そこで,「タイプ2の真実」は,「理由はわからないが,現実はこのようになっている」というものである。これは事実の認定ということになるので,立場によって,認定するかどうか異なってくる可能性がある。では,地球温暖化に関する言説を並べて整理してみよう。

 

[言説1] 理由はわからないが,最近100年間において,地球の大気の温度は,それまでに比べ,急激に上昇している。

[言説2] 最近100年間に,大気中の二酸化炭素濃度は徐々に上昇している。

[言説3] 最近100年間の二酸化炭素の増加は,化石燃料の燃焼が原因である。

[言説4] 地球の気温は,太陽からの入射光と地球からの熱放射のバランスで決まっている。

[言説5] 地表近くの大気の温度は,上層の大気による温室効果によって高められている。

[言説6] 地球の歴史の中で,大気の温度は繰り返し上昇下降を繰り返してきた。

[言説7] 地球の歴史における大気の温度の変化は,大気中の二酸化炭素濃度の変化と相関している。

[言説8] 最近100年間の大気温度の上昇は,二酸化炭素濃度の増加が原因である。

[言説9] 地球温暖化を防ぐには,省エネルギーが大切である。(偽)

[言説10] 二酸化炭素の増加を防ぐには,化石燃料の利用をやめることが必要である。

[言説11] 二酸化炭素は主要な温室効果ガスである。(偽)

 

 どれも正しいと考えられている言説である。では,これらは「真実」なのだろうか。

 報道されている記事を読むと,必ずしもこれらの言説の相互関係について,詳しく述べられていない。政府の説明も同様である。何でも疑うという姿勢で臨んでみよう。

 [言説1]は正しいのだろうか。よく引き合いに出されるのが,過去の地球の歴史における温度変動データであって,[言説6][言説7]が出てくる。しかし,過去の歴史データについていうと,過去1000年くらいのデータはわかるにしても,過去数百万年や数億年という時間のスパンの中でのデータでは,100年間に今と同じくらいの気温の急上昇があったかどうかを判断できる時間分解能がないのではないだろうか。過去に気温が10度位上下したことは事実のようなので,それだけみると,今の温度変動など地球の歴史の中ではごくありふれた現象である,とも思えるのだが,説明者は必ず,100年間で0.5度,直近の10年間でいえば,0.13度くらい変動した例は過去にないので,現在起きている変化は,地球の歴史上稀に見る異常事態である,と断言するのである。本当にそういうデータがあるのだろうか。これが第一の疑問である。ハリウッドのSF映画ならば,「地球の歴史上未曾有の大事件」や「人類滅亡の危機」を気楽に傍観している訳なのだが,現実の問題となると,判断力が鈍くなってくる。[言説8]を示すこともかなり難しい。二酸化炭素による温室効果はすでに飽和しているという考え方もある。また温室効果の大部分は,水蒸気によるものである。そうだとすると,二酸化炭素がいくら増えても気温の上昇は説明できない。

  [言説2][言説3]はどうだろうか。[言説2]の観測データは,地球上の異なる場所での測定値が一致するので,間違いないらしい。タイプ2の真実としておく。[言説3]も妥当性が高いようであるが,注意が必要である。地球全体の炭素の循環のデータを見ると,地球全体の炭素の大部分は深海にある。大気中の二酸化炭素はごくわずか(750 Gt)である。また,光合成や呼吸による生物と大気との間の二酸化炭素の流れは,60 Gt/year程度である。化石燃料の燃焼による大気への二酸化炭素の供給はたかだか5.5 Gt/year程度である。これに対し,海洋と大気の間での二酸化炭素の出入りは90 Gt/year程度もある。海洋でも上層の海水に含まれる炭素(1020 Gt)より深海の炭素の方が桁違いに多い(38100 Gt)。普通の自然科学の素養のある人なら,これらの数字を見て,化石燃料に注目するだろうか。化石燃料を燃やすことを罪悪視するのは,エネルギー浪費の連想からなのではないだろうか。 [言説9][言説10]の根拠は,心理的なものにもあるようにも思える。しかし,太陽から地球に到達する全エネルギーに比べて,化石燃料が発する熱エネルギーは0.02%に過ぎない。化石燃料を全部燃やしても出てくる熱は微々たるものだし,二酸化炭素もわずかなのである。非常に単純な考え方をすれば,化石燃料を全部二酸化炭素にするということは,木生シダが大量に繁茂した石炭紀以前の状態に戻るということであろう。その時代には地球は今よりは暖かかったに違いないが,生命の生存ができなかったわけではない。

 [言説1] [言説2] [言説3]を結びつけて出てくる [言説8]についても,疑ってみたい。逆を考えて,二酸化炭素の増加は,気温の上昇の結果,海洋からの二酸化炭素の放出が増えたため,という可能性もあり得るからである。地球の歴史の中での気温変動は,二酸化炭素の増減のサイクルで説明され,その場合,系は発散することなく,どこかで循環するのである。同じ理屈が今の状況に当てはまるのかどうかもわからない。おそらく素人が適当に憶測しているだけではだめで,厳密なシミュレーションが必要とされる。しかし,それはかなり困難である。ここで諸言説の空間を表示してみよう(次のページ)。足りない線は補っていただきたい。さまざまな種類の言説が相互に絡み合って,結論として言説8が真理として語られていることがわかる。その中には,言説9のような心理的な背景に過ぎないものや,言説11のように明らかな誤りも含まれていることに注意すべきである。

 

 このようにいろいろ疑ってかかると,環境派の人々からは,まじめに考えろと怒られてしまうだろう。しかし,科学と政治は区別しなければならない。今問題になっているのは,「環境問題」という政治問題であって,科学の問題ではなくなっている。温暖化するとどういう不具合が起こるのかというと,南極の氷が溶けて,海面があがるため,低い土地が水没するということが挙げられる。ちなみに北極の氷は水に浮いているので,溶けても海面はあがらない。水没の可能性のある土地に住んでいる人にとっては死活問題であろう。他には,気温上昇により砂漠化が進む,気温変動によって生態系に異変が起きる,平均気温の上昇以上に局地的な温度のアンバランスが大きくなる,異常気象が多くなる,などというものである。

 

 

 NHKの生き物を紹介する番組「ダーウィンが来た」で放送していた話題を例にしてみよう。気温の上昇により,ある植物の開花時期が早まり,そうするとその植物の花粉を媒介する昆虫がいないので,植物が結実しなくなり,また,その昆虫も激減したそうである。つまり,環境破壊だといって嘆く話である。こういうのをpseudoscienceというのだろうか。過去の長い歴史の中で進化してきた生物にとって,ある日突然生存が危うくなることは幾度となく起きてきただろう。開花時期が特定の昆虫だけに強く依存していて繁殖に重大な影響があるということは,ある歴史的瞬間をとらえればそうかもしれないが,本当にそれが致命的なことだったとすると,そのような植物がこれまで生存することができたとは到底考えられない。もちろん言われていることが正しいかもしれないが,それを示すためには,提供されたデータだけでは全く不十分である。その植物と問題の昆虫の進化の歴史を逐一明らかにしなければならない。生物相互間の関係は非常に複雑で,ある局面だけをみて結論を出すということは難しい。こういう一見尤もらしいロジックはしばしば登場するので注意が必要である。上述の造反有理の原理からいうと,体制派に逆らうこのような言説ももちろん大切なのだが,一つのロジックにはまって固定観念化するとこれも危険である。あくまでも頭は冷やして,しかも柔らかくしておかなければならない。

 このように,環境保護を訴える言説は,どうしても心理的な面が強い。最終的には,すべてのことを科学的に判断するのは無理だからなのだが,環境ホルモンの騒動などもこのたぐいである。もともと雌雄の性転換をおこすことができる動物について,両性のバランスが少し変わったということを,あたかも人間でも性が転換するかのごとく報道するあたり,別個の話の構造の相似性を巧みに使ったものである。人間にとって性はとても重大な問題で,強い心理的効果を生み出す。このような手法は,上で紹介したR. Barthesconnotation概念で説明することができる。

 

6.最後に

 ここまで,できるだけ他の人が言わないことを言うようにしてきたので,違和感を持つ人も多いかもしれない。しかし,世間は広い。本当に信じられないような考え方をする人があるものである。諸言説の空間の中でうまく舵取りをしていくことは,インタープリタにとってはとても大切な仕事になりそうである。最後にまとめとして,私からの提言は,

「何でも疑おう」

ということにつきる。また,自分で書く文章は,特定の主張を一方的に擁護するようなものでなく,正当な批判が可能なようなバランスのとれたものにしたいものである。馬鹿になって疑い続けると,時として裏切り者扱いされたり,悪人扱いされるかもしれない。しかし,いつも冷静な心と柔軟な頭でテキスト分析を行い,どんな議論にも応じていこう。注意すべきことは,

「自分自身も疑ってみよう。自分も悪役に荷担しているかもしれない。」

ということである。さらに,忘れてはならないのは,疑いの矛先の向け方である。皆さんは「人の苦しみを理解し分かち合えるやさしさ」をもつことができるだろうか。それだけの経験と素養を積むことは,大切な修行である。石浦流寄席と佐藤流馬鹿を組み合わせて,諸言説の森を開拓し,インタープリタとして活躍していくことを祈る。