生命の原理を解明する研究の方向
1. 駒場における駒場らしい研究を目指す
駒場に相応しい研究といった場合,本質的に多くの分野にまたがりながら,生命の本質を理解するための研究を志向すべきではないかと考えている。その場合,
「光合成−葉緑体」を核とした研究の存在理由raison d’êtreを以下のように定義す る。
A. 光合成−葉緑体を軸とした研究の展開
細胞的生命の本質は,エネルギーの非平衡な流れ とそれに共役した細胞周期と増殖であるとした場合,葉緑体は
細胞的生命の最も本質的な部分のモデルとなる。なぜなら,葉緑体は遺伝物質と膜を持ち,光エネルギーによって
駆動される複製と分裂のサイクルを持つからである。この4者の関わりを解き明かすことが,細胞的生命の本質の
理解に他ならない。その場合,「光合成−葉緑体」が細胞的生命の本質的理解における最も単純な系である(下図)。ミトコンドリアは,このうち光の部分がな
いので,いわば部分的な系と位置づけられる。
まず,宇宙と生命の基本原理から理解することにしよう。太陽の光エネルギーは色温度6000
Kというように6000Kに相当するエネルギーを持っている。これに対し,地上は 約300 Kであり,さらに宇宙空間は3
Kである。すなわち太陽の核融合で生まれたエネルギーは,地球に降り注いでさまざまなことを引き起こした後に,最終的には熱エネルギーとして宇宙空間に発
散していくことになる。このようなエネルギーの流れに共役して,構造(秩序)が生まれる。そもそも宇宙自体,非平衡であって,その膨張の過程で渦を生じ,
星が
誕生したのであるから,宇宙も散逸構造で成り立っている。地球の構造もこうした非平衡状態における動的な構造である。非平衡な流れによって構造ができる最
も卑近な例は,お湯が沸く時の対流である。下からの熱の流れによって,水分子の対流運動による渦巻構造が形成されるわけである。生命も全く同じである。生
命体が持つ複雑な構造は,摂取したエネルギーを熱エネルギーとして放散する過程で獲得した「負のエントロピー」(Schrodingerの
言葉)によって作られる。エネルギー自体は保存され,増減しないが,太陽光エネルギーの低いエント
ロピーが生命体の構築に利用され,20倍になったエントロピーが環境に放出される。生命は本質的に
環境を汚染しながらでなければ成り立たないことになる。こうして,光エネルギーの非平衡な流れによって作られる生命体内の代謝サイクルが生ずる。この代謝
サイクルがさらに細胞周期を駆動し,細胞は分裂する。細胞が分裂しなければならない本質的な意義は,このサイクルを維持できる物理的大きさに限度があるた
めと考えられる。
このように考えた場合,生命世界全体がこのよう にして動いている。つまり,光エネルギーによる光合成によっ
て光合成生物が増殖し,これをエネルギー源として,従属栄養生物が増殖する。すなわち,生物世界全体の縮図が葉緑体ということになる。またミトコンドリア
はその一部分に対応する。オルガネラは真核細胞の一部ではあるが,もとは独立した細菌であったし,現在でも,細胞質の中で半独立的に増殖している。細胞核
からの支配や必要な成分の供給もあるが,本質的なところは持っていると考えられる。シゾンの細胞の場合,葉緑体の増殖が細胞の増殖を駆動しているように見
えるので,これは上の図では曖昧になっている一番左の細胞周期の部分は,葉緑体の「周期」と細胞そのものの「周期」とに分解して考えるべきであると思われ
る。植物の場合には,細胞の分裂と葉緑体やミトコンドリアの分裂は全く連関がなく,それらの関係は間接的なものになっている。この点で,シゾンはすべてが
単純に直結しており,ここで考えている細胞的生命の基本的機構の解析には最適の材料ということができる。
すべての生物が光エネルギーで生きているという のは正確ではなく,深海などでは,地球の内部にある物質の酸
化還元でエネルギーを得ている生物が存在する。これは,光合成開始以前の地球でも同様であったと考えられる。これは何も特別なことではなく,地球自身にも
宇宙自体が持つ非平衡性があり,それによって生物が成り立っているという点では,基本的にはその他の生物と同様の原理であると考えられる。
B. 生命の階層性
細胞的生命のエネルギー的な面はこのように定式 化されるが,構造的な面は解明すべき余地がある。低いエント
ロピー(または情報)によって作られる構造には,エネルギー的には等価なものがたくさんあり得るが,現実の生物は,遺伝的に決められたプログラムにしたがって,決まった構造を決まった時系列にしたがって形成する。生命の基本原理が上記のように説明できたとしても,生物の多様性は,どのように理解されるのか。実際の生物では,同じ機能を異なるタンパク質が担う場合や,同じ物質を合成するのに異なる経路を使う場合など,選択肢が多数存在する。これらは進化の偶然性によって選択されたのだろうか。進化は,生命システムの本質論においてどのような役割を果たすのか。さまざまな生物のもつ情報量はどのように比較すればよいのか,その情報量は進化とともに増えていくのかなど,遺伝情報に基づく細胞構造と代謝ネットワーク,細胞周期等の構築に関する理論は,これから研究しなければならない。
生命現象には,細胞的生命とは異なるレベルも存在する。たとえば,有性生殖,細胞間相互作用,形態形成,な
どからなる多細胞系生命,個体間の相互作用や世代を超えた生存戦略などを含む多個体系生命などである。これらに対する概念的理解は必ずしも十分とはいえず,今後検討が必要である。単細胞生物が集まることによって個々の細胞では見られなかった現象がおきることがある。生物対流もその一例で,多数の細胞が走性によって集まったときに,密度の反転があり,それがある限界をこえたとき,対流が始まる.細胞間の相互作用があるとさらに対流のおき易さが変わることがある.これは単なる物理現象ともいえるが,生物の遊泳による走性が原因という点で,生物固有の現象である.この場合も,エネルギーの非平衡な流れが対流の原因となっている点,上の細胞的生命の原理と共通している.また,生物進化は生物対流がおきることを前堤にすすんだはずであることも,生物対流を生物現象として考える根拠である.生物対流が多細胞体の形成にどの様に結びつくのかは,これからの研究課題である.
C. 生物学の変革に向けた多様な学問の統合
このような考え方は生物物理学における生命の概 念であり,一般の生物学者において普及しているものとはいえ
ない。「生物学」という概念自体新しいものであり,以前は,「動物学」,「植物学」,「微生物学」であって,それぞれの生物の特性を詳細に記述することが
その使命であった。「生命とはなにか」という問は,古来,哲学者や物理学者から発せられたことはあっても,生物学者からの問ではなかった。1970年代に
分子生物学が発展した頃には,遺伝子がすべて解明されれば,生物の本質が解明されるという期待があったのだが,現実に1980年代以降遺伝子が,1995
年以降ゲノムが,それぞれ解明されてきたにもかかわらず,生物学者の関心は,個々の生物の個々の遺伝子の詳細な発現制御へと向かい,以前にもまして,詳細
な記述的な学問となる傾向が強まっている。ゲノムレベルでの網羅的解析,転写ネットワーク,等々のシステム生物学のように見えるインフォマティクスも,個
別の記述の集積をコンピュータのパワーによってどのように整理するかという点にとどまっており,システム全体がどのように駆動されているのか,全体を支配
する原理は何か,というような本質的な問に向かっていないのが,現実である。おそらく情報生物学者の多くには物理学の知識が欠けているために,非平衡系を
解析するという基本的発想がない。ただ単に遺伝子を矢印で結ぶことで終始しているようにみえる。反面,生物物理学からの解析も,生命のさまざまな階層の解
析には至っておらず,せいぜい細胞的生命の理解に関して,エネルギーの流れと細胞の増殖の共役が定式化されているに過ぎない。いわんや普通の生物学者に
は,個別の遺伝子と遺伝子,遺伝子と現象,などの対応以上のことを解析するという発想がない。現在の生物学の教育では,生物物理の基礎概念を学ぶ機会すら
ないのが原因である。いまや,生物の研究室では,解析する遺伝子の数だけの人間がいればよく,遺伝学や分子生物学の常識はもちろん必要であるが,特に難し
いことを考える必要はなく,ただ実験をこなせばよい,という傾向が強い。これでは,上記のような状況を打破することは不可能である。
このような現実の中でこそ,駒場らしい研究とい うのは,物事を本質から理解しようとするものでなくてはなら
ず,生物物理学から生化学,分子生物学,遺伝学,形態学,生理学を縦断するような形で,「生命とは何か」という問に取り組むというのが,おそらくよそでは
出来ない独自の研究といえるのではないかと考えるに至った。我々は少人数ではあるが,上述の「細胞的生命」の根本原理を「光合成−葉緑体」から解明できる立場にある。幸い,DNA,膜,光合成,分裂のすべてに手がかりを持っている。これらのテーマを横糸とすれば,比較ゲノムと系統解析は極めて重要な縦糸である。現在の研究テーマのすべてが有機的に結びつくことによって,今までにない新しい概念を作り出すことができると信じている。
2. 研究テーマ
テーマ1:葉緑体の
「周期」における核様 体,膜,光合成,分裂の関係のダイナミクス
これが,「細胞的生命」の本質的理解に関わる研究で ある。
葉緑体とシアノバクテリアの核様体の分子構築と動態
核様体の複製の機構と「周期」による制御
葉緑体の分裂における核様体の分配と分裂の関係
膜の合成部位と「周期」における合成の制御
光合成エネルギーと「周期」の共役機構
葉緑体の「周期」による「細胞周期」の制御
葉緑体とミトコンドリアの対応関係
光合成生物の多様性を産み出したゲノム多様性進化の解析
テー
マ2:多細胞系生命の基礎概念の創出
単細胞生物の集合による多細胞系の形成の最も基本的過程として、生物対流を研究する。
さらに多細胞系の統御に関する一般論の形成を目指す
(細胞分化,細胞間シグナリング)
テー
マ3:生物学の基本概念に関する出版と 広報
研究室への新たな優秀な人材の確 保を目指すため,上記の考え方を明確にし,可能な限り出版物
として社会に出していく。理1の教科書に続き,理2・3の教科書,光合成の教科書などを出版した。
2006年4月6日 記 2008年4月2日改訂